蹴っ飛ばし始めて60年

大川洋次郎    

写真  私の球の蹴り始めは昭和24年、京町の京陵中学校入学より始まりました。今年は蹴球還暦。京陵中学校2~3年時、中学校大会連続優勝。当時京陵中が強かったのは、隣の付属小学校同敷地に師範学校があり、先生の卵、教生と一緒に蹴球していた関係がありました。
 京陵中学校を卒業後、濟々黌に入学、引き続き蹴球に熱中し当時の荒っぽい蹴球を覚えたようです。濟々黌時には右サイドハーフからセンターハーフ、次にライトインナーとポジションを変わり、日の暮れるまで蹴っ飛ばしておりました。濟々黌卒業後は、熊本日産自動車に就職し、引き続き、熊本クラブで球蹴りをし、熊本県蹴球協会に所属、昭和35年に熊本での国民体育大会が開催されることが決まり、どうしても大会運営に2級審判員が必要となり、34年から審判員養成に入りました。熊本には1級審判員は緒方健司氏だけで、我々は夜遅くまで研修を受け、晴れて日本蹴球協会2級審判員(九州蹴球協会所属第49号)で登録がされ、熊本での開催に間に合ったものでした。蹴球競技の熊本国対の本拠地は、松橋を拠点に八代、日奈久方面へ審判に通ったものでした。 昭和49年よりカタカナの日本サッカー協会となりました。その後は、熊本県のサッカー競技の普及、楽しむサッカー等、底辺拡大のために、昭和41年サンデーキッカーズの立ち上げ等に微力を尽くしてきました。
 今年創立15周年を迎える「クマモトオールドキッカーズ」も、錚々たるメンバーにより、今や盤石の体制で、九州はもとより全国に羽ばたいているサッカー集団であります。しかし、これより先は、怪我をしないように「生涯現役」の精神で頑張ってもらいたいと願っております。
 前日ひょっこり昔の写真が出てきました。1957年(昭和32年)水前寺競技場での写真。鬼籍に入られた方もおられます。ご冥福を祈ります。徳永庄作(濟々黌)、南條信幸(熊高)、池田敏(熊商)、吉見好則、井上春喜(熊工)等々と共に、昔懐かしい縦縞のユニフォーム。

背番号43 我がサッカー人生

井上 武俊    

写真  中学1年(12歳)で始めたサッカー、当時は「蹴球」と言っていた頃で、まだ一般には馴染みの無いスポーツだった。正月の全国高校サッカー大会や国体に出場しても、観衆は「大会関係者」のみで、試合会場も現在のような芝生ではなく「土のグラウンド」、雨が降ると泥んこになってボールを蹴っていました。
 それから約60年、よく今までサッカーをやってきたと、我ながら感心しております。昨年は「70歳」となり、「銀パンツ」を頂き「KOKロイヤルチーム」へ昇格?
これからも“生涯現役・金パンツ”を目指し、「走り続け」「蹴り続け」たいと思います。 KOKの皆さん、これからもよろしくお付き合い下さい。

KOKに入会!

大矢野 種澄    

写真  平成21年春、退職と同時に熊本商大時代の先輩の誘いでKOKに入会した。大学卒業後、仲間と菊池クラブを結成、商大OBと名を変え35歳までサッカーに携わってきたが、まさか60歳になってまでサッカーを再開するとは夢にも思わなんだ。初めての練習試合で右大腿部に違和感が走り、その1週間後左足を痛めてしまったが、今日まで治療をしながらの練習、そして試合に参加して早くも半年が過ぎようとしている。
 幼い頃、身が軽く運動神経が良かったのか、地域の人達から子天狗と呼ばれていた。小中学校で器械体操部、高校では好みの女性がテニス部に入ったので、私も入ったが、ある時、授業でサッカーがあり、先生から「お前はサッカー部に入れ」と半強制的に入部させられた。今思えば、私の人生を左右する転機となった事は言うまでもない。
 KOKは錚々たる経歴と個性豊かなメンバーである。その仲間になれた事を嬉しく感じている。また、1週間に1度、練習・試合・飲み会等で出会える事も楽しみの一つである。青春は若い人達だけのものではない、いくつになろうとも、目的・希望・夢・想い等を持ち続ける事こそ青春だと思っている。KOKに入会したことで、体の事を、より一層考えるようになった。それは仲間と少しでも長くボールを追い駆けんが為である。こうなったら体が続く限り、青春するぞー!

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