生涯現役・親睦第一・勝敗第二のサッカー活動を通じて、健康で楽しくサッカーができるクラブです。
「追憶」〜故・岡田良雄氏の想い出
黒木 参喜
サッカーWカップ日韓大会開催年の2002年9月末、西日本第1回全域ロイヤルエイジサッカー大会が、 ゴールドフェニックス福井主管の下に、メキシコ代表ゆかりのテクノポート福井スタジアム(三国町)で開催された。 九州からは緒方健司ご夫妻、岡田氏、小生の4人と大分から川辺正行氏外3名の方が参加した。 何しろ第1回のロイヤル大会とあって各チームともメンバーに余裕がなく、欠場者が出る度に選手を融通しあう大会となった。 西日本元老も2チーム編成がやっとで、甚だお寒い状況であった。 岡田氏はこの外に他チームの補充要員として或いは突然の選手交代にも快く応じ、2会場を行き来しながらしかもレフリーまでこなし、 ベンチを温める暇もないほどの奮闘ぶりであった。大会成功の陰に氏の献身的協力があったことは言うまでもない。 あの日、長旅の疲れも見せず、笑みを湛えながら軽やかにピッチを駆け回っていた氏の面影が懐かしく思い起こされる。 西日本OBサッカー連盟発足(1975年)後、常務理事(1982〜87年)として連盟の発展に貢献すると共に、 連盟が主催する全地域大会に熊本OBチームの一員として或いは誘いが遠路・単身も厭わず西日本元老の一員として各地の大会に参加し 、サッカーが出来ることの幸せに満ち溢れた面持ちでピッチを縦横に駆け巡っていた姿が今でも強く印象に残っている。 さらに、昭和55年第1回上海蘇州遠征を皮切りに毎年実施されている海外遠征の常連として広く海外にも足を運び 、サッカーを通じて国際親善の一翼を担ったことなど、枚挙に遑がないほどの活躍ぶりであった。 西日本OBサッカーをこよなく愛し、OBサッカーのあるべき姿を身をもって教示してくれた氏こそ、 紛れもなく西日本OBサッカーそのものであったと思っている。我がサッカー人生の遊歴
甲田 憲一
1951年高校2年生の時、友達に誘われサッカー部に入部(それまで陸上・野球・ラグビーを経験)。
翌3年生の時熊本商業高校グラウンドで行われた県の国体予選の準決勝で熊本工業高校に競り勝ち決勝で八代高校に完敗、残念ながら国体に出場出来なかった。
そのことがきっかけかどうかは定かではないが、その後次のサッカークラブチームに誘われることとなる。
熊本高校OBサッカークラブ・熊本サッカークラブ・サンデーキッカーズ・熊本地方貯金局サッカークラブ・全逓熊本サッカークラブ・
九州郵政サッカークラブ・熊本四十雀サッカークラブ・熊本OBサッカークラブ・・・そして現在に至る。
この間、1974年5月東京都駒沢オリンピック記念総合運動公園サッカー場で行われた
第2回全国郵政サッカー大会九州郵政サッカークラブのキャプテンとして出場「全国制覇」。
これが我がサッカー人生における唯一の「勲章」かもしれない。
私のサッカー役員歴は、元九州サッカー協会常任理事、元熊本県サッカー協会常任理事、元西日本OBサッカー連盟監事である。
私のサッカーの原点
佐野 紀敏
私のサッカーの原点は、高校1年生の時、国体11回大会(兵庫県西宮)サッカー競技に出場したこと。
さらに日本サッカーの夜明けのきっかけとなったドイツのクラマーコーチから、熊本の地で直接指導を受けた。
この時、多くの人が指導を受けて、熊本のサッカーの夜明けともなる。
以来、私はサッカー馬鹿を自認している。
仏の清川
清川 倫夫
仏の清川も試合になると鬼の形相になっている。 笑っちゃうな〜!
100歳でピッチに立つ!
吉村 勉
背番号64!吉村選手!
練習日!
宮崎 澄夫
練習日 次なる妻の一言が連想され 痛いのをじっと我慢する