私の人生を決めた二人

木野 浩    

写真 現在、週一回ルーテル高校グラウンドでサッカーを行っている。城塚、竹村両先生と会えるのを楽しみに練習に行っている。 両先生との出会いがあったから今の人生がある。両先生との出会いはもう50年も前のことである。
小学校6年になった時、城塚先生が担任として広安小学校にやって来た。益城の大地にサッカーを持ってこられた最初の先生である。 当時、城塚先生は、同僚の女性教師に「ボールを蹴るとは何事ですか。ボールは手で扱うものです。きちんと指導して下さい。」と言われたとか。 そんな時代だった。1年間があっという間に過ぎた。小学校6年間組替えがなかったため、私はずっと一組だった。 二組だった金田一美君は、隣の教室にいたがお互い相手の存在を知らない。
そして、益城中学校に入学した。私は三組になり隣の二組の担任として竹村先生がやって来た。すぐにサッカークラブが出来た。 ここで二組になった金田君も竹村先生と出会い、サッカーを始めた。竹村先生は数学の先生で、判りやすく、私は家で数学の勉強をする必要はなかった。 教える事がうまかった竹村先生のもと、益城中のサッカー部は3年間で県内のトップクラスになった。当時強かった藤園中学校に行くのが楽しみだった。 2年のクラス替えでは四組になり、担任は竹村先生となった。3年生も同じクラスで、竹村先生には2年間お世話になった。そして迎えた高校受験。 思えば、小学校5年の担任は音楽の先生だったが、「そろばん」をさせる先生だった。お陰で3級は取っていた。 城塚先生との出会いにより「そろばん」から「サッカー」に移行。そのため、そろばんは3級で終わったが、 当時、自分としては「熊商にでも行こうかな」とおぼろげながら思っていた。しかし、竹村先生が熊工を勧めた。
結局、益城中サッカー部は熊工に6人受験した。熊商は1人だった。あと、熊高1人、第二1人。そして私は熊工土木科に合格した。 ここで、北里敏明君、61歳で亡くなった藤本正一君と出会う。金田一美君は化学科に合格した。 熊工土木科を卒業した私は地元の叶野建設コンサルタントに入社し、土木関係の仕事を44年間勤めた。 まさに竹村先生が熊商ではなく熊工を勧めてくれたから、今の人生であり、もし熊商に行っていたら、 鶴屋に就職し井上さんや稲田さんの部下になっていたかもしれない。
前に述べたように私の人生には城塚・竹村先生との出会いがあったから、どちらか一人でも出会わなかったらサッカーとの出会いもなかったし、 熊工にも行ってなかった。全く別の人生を歩んでいたでしょう。(熊工入学から現在までは次回に続く)

仲間がいるから楽しめる

城塚 幸雄    

写真 天皇杯熊本予選を仲間と観戦した。若い選手たちが走る!走る!見ていて気持ちがいい。若いっていいなー、蹴るボールが軽やかな音を響かせて、 正確に思いのままに飛んでいく。
こんな時代もあったんだ。振り返ると、ボールを蹴り始めて早や60数年を超えた、随分長くボールを蹴ったものだ。 お陰で膝が少々おかしくなった。これも勲章か?蹴るボールは重くなり、鈍い音をたてて飛んで、行先はボールに聞いてみろ!である。 気が付けば、気持だけが走っている。残念だがこれも年相応だと自分に言い聞かせている。
それにしても何時の間にか、KOKで最年長になっていた。今後は体調に合わせて細く長くゆっくりと、走ろうと思っている。 ここまでボールを蹴ることが出来たのは、多くの素晴しい仲間がいたお陰だと感謝している。
私もそうであったように“目標にしているから頑張れ!”と言ってくれる仲間がいる。 マーいっちょ、頑張るか!次に続く仲間も同じ道を走るだろうから。

予期せぬサッカープレー

白石 修    

写真 社会人1年目、野球指導を期待され、某中学校に着任。しかし、その学校にはサッカー指導者不在。廃部を止めるため、 自らサッカー指導を希望し指導に当たる。それから20数年(一時は野球とサッカーとの掛け持ち指導)サッカー指導に明け暮れる結果となる。 平成時代に入ると仕事上、部活指導が出来なくなり完全にサッカーとの縁が切れる。(自分の野球活動は続ける)
ところが、退職の年の7月頃、KOKの数名の先輩から「広島年輪ピック」への参加依頼を受ける。予期せぬまさかのサッカーとの復縁である。 それから8年。当初の3〜4年位は試合後、体のいたる所を痛め、野球と違った筋肉痛を体験。 だが現在は身体もサッカーに慣れたのか傷みも少なくなり歓びを感じるサッカーになってきている。 願わくば73才くらいまでは走れるサッカーマンであり続けたいと思っている。

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